下関の水 おもしろ塾❶ 水にまつわる伝説 住吉神社 双水井と楠船
 長門國一の宮(山口県下関市一の宮住吉)にある住吉神社は、室町時代初期の建
築様式で「九間社流れ造り」と呼ばれる国宝の本殿があることでよく知られていま
す。
 神社の大鳥居と花崗岩の石畳参道を左に見て、中国自動車道が走る方向へゆるや
かな勾配をおよそ200メートルほどすすむと、左手には馬場町民館と相撲場。
そのあたり右手は住宅街です。神域から唐突に生活の匂いがするところへ出てしま
います。よくみると家並みの間には小さな川がながれています。
そして視線を自動車道の方へあげると、住宅がつらなるすこし先に大きな楠の緑が
目に入いります。その緑陰には個人宅の駐車場が遠慮がちにある。
その先に「船楠」という木製の白い案内板が立っている。
曰く、
 その昔、住吉神社に供える御水は、沖つ借島(蓋井島)にある井戸の水を毎日楠
船で運んでいたが 天平宝字年間(七五七〜七六四)時の 大宮司山田息麿は海の
荒れる日、神供出来ないことを憂い、神気を伺い、御井を山田邑(現在地)に移し
たと伝える。
 このことから神水を運ぶ必要がなく、繋ぎ置かれた楠船に根が生え繁茂したと
いわれる寄瑞の霊木である。
  尚、移水の真名井は、これより三十m南寄りに現存する。
                    平成八年三月一日記 住吉神社々務所

 蓋井島から神社に水を運んだ船を、この場所につなぎ置いたら、そのうちに根が
生え、枝葉がおいしげったと伝えています。
いまその周辺は注連縄がはりめぐらされ、住吉神社の飛び地、神域となっています。
 楠の大樹、その根幹はふたつに裂け、大口を開き、その発することばを四方に示
せとばかりに枝葉が伸びる。
響灘の波風のなかを走る船のチカラをたくわえて、はなはだ雄大にして神木の趣き
があります。
 ここから、さらに30メートルほど南に清水をたたえた覆い屋がある。
説明板が言うところの真名井、「双水井」のための施設です。
 大宮司の移水以来、湧水が涸れることなく、いまも毎日、住吉神社の神前にそな
えられているそうです。
 では、かつて蓋井島から神社まで船で運ばれていた、といわれる水は、島のいっ
たいどこで汲まれ、ここまで運ばれてきたのでしょうか。必然、そんな興味も湧い
てくるのです。
 気持ちは蓋井島へ向かへと 。
蓋井島は下関市の北西、響灘に浮かぶ小さな島。
その島の周囲は13 km。東西南北四辺のほとんどがけわしい断崖に囲まれています。
面積232ha、島峰251m。島へ渡るには下関市吉見の漁港から市営の定期船を利用
します。航路距離は14km、片道おおよそ30分 。
七年に一度おこなわれる「山の神神事」がある緑と神話の島です。
 「蓋井島」その由来は神話の世紀。神功皇后の三韓征伐までさかのぼります。
神功皇后が朝鮮半島からの帰り道、この島に立ち寄られたときのことです。
大きな石の壷にたまっていた湧き水を神功皇后が飲まれた。そのとき「たいへんお
いしい水」だとほめられたそうです。そしてそのあと石の壷を蓋で覆われた。
そうした故事から蓋井島と名づけられた。
 また別の伝えでは、その水が湧くところ、「水の池」と「火の池」ふたつの井戸
があり、それを蓋で覆った。つまり「ふたつの井戸」に由来しているという説もある。  さらにもうひとつの説には、島内に清水を湛えた池があり、住吉神社の神事に
御神水として用いられていたが、汲み終わったあとは固くふたをして、だれも池の
水を取ることができないようにしていたため。とも諸説伝えられています。
 以上が蓋井島と湧水のいわれです。
 いま島にわたり、湧水の汲み場所とおぼしきところをさがせば、島の漁港から八
幡宮方面へ、海岸沿いに徒歩で五分ほどの道のり。路傍の山手に湧水をためた小さ

な覆い屋があります。この水汲み場が、くだんの井戸なのでしょうか。
島の日射しを浴びて四方、ただ黙するのみ。

下関市蓋井島の水道
 平成19年4月1日から下関市水道事業に統合される。 その後、本土の吉母から蓋
井島まで、送水管の長さ12,098m。うち海底部が11,229mの送水管布設工事の完成
により、平成20年11月20日に給水開始。

下関の水おもしろ塾コラム 浅井仁志
参考文献/長門一宮 住吉神社パンフレット
下関市ホームページ・下関のしま
下関市水道百年史       
 
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