「下関上水道の父」と呼ばれるW.K.バルトン氏の功績に敬愛をこめて
 時代は幕末から明治へかわる、その四半世紀当時の下関です。
このころを機に下関は世界へ開けた国際交易港としての性格をもつようになります。
国内外から人や物資の出入りが増えるにつれ、貿易船が持ち込むコレラなどの伝染
病が市内にたびたび流行するようになりました。
当時、コレラの感染源となったのは市内にたくさんあった不衛生な井戸でした。
 ただここで、井戸水のために、すこし弁解をしておきましょう。
まずは、下関の地形を思ってみてください。
 関門海峡に面した町、そこにはほとんど平地がみられません。
そして大きな川もありません。
かつては海岸線にたくさん点在した井戸もいまは、埋め立てによって内陸に後退し
て探すこともむずかしくなっています。
当時はこれらの井戸水が人々の生活水や飲料水として欠かせないものでした。
そして近代になると、大陸へ出て行く船舶が航海で必要な飲料水も、このまちで汲
んだ水でした。
 当時、これらの井戸水のなかには不衛生なものが多かったこともたしかです。
当時の明治政府議会は、たび重なるコレラのまん延をふせぐために、上水道の普及
を決議しました。「安全、安心な水を人々へ」。
そのために、近代上水道について知識と経験をもったイギリス人技術者、W.K.バル
トン氏
が、はるばる招請されました。
来日したバルトン氏は、日本の各地で近代水道のための調査、設計をおこなってい
ます。
 下関市は1891年(明治24年)、バルトン氏に調査を依頼しています。
バルトン氏による下関調査。その結果は、内日に水源を求め、高尾に浄水場をつく
るというものでした。
内日水源地から浄水場までその間は距離が約12Km、高低差が60m。この間を導水
管でつなぐという大規模な工事です。具体的な工事計画には、さらに調査が必要で
した。
 その具体的な工事計画は、バルトン氏の教え子であった滝川釖二氏を大阪から招
き、工事の設計や工事監督をお願いしたのは、バルトン氏の調査から5年後のこと。
 そうして下関に初めて水道水が給水されたのは1906年(明治39年)1月1日。
バルトン氏の調査設計から15年後のこと。
全国で9番目の給水開始でした。ちなみに給水開始直後、明治39年1月9日時点
の給水戸数は24戸という記録が残っています。

 バルトン氏はその後、日本で生涯を終えています。
下関上下水道局が製造する「あぁ!関露水」のラベルには、
水道創設にかかわった先人たちへの感謝をこめて、バルトン氏の肖像がデザインされています。
文 浅井仁志
参考文献/ 下関市水道百年史
 
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